ればたらブログ

真鯛釣りをメーンにLINEを通した友達作りに勤しむアクティヴ爺さんの気まぐれブログ。

東日本大震災の記録

東日本大震災から10年目となる3月11日・・・・。

3月11日の今日は、東日本大震災の発生から数えて10年目となる。

吾輩にとって5年目も10年目も単なる区切りであって特別な意味は全くないのだが、肉親が犠牲になった一人の被災者として見た時、やはり一つの区切りと言うべきなんだろうなぁ。

10年ひと昔とも言うし・・・・。

義母(カミさんの母親)の10年目の命日にあたる今日、これから墓参りに行くつもりだ。

たかが10年されど10年・・・・。

死者・行方不明者が関連死を含め22,000人を超え、津波や原発災害で多くの人が家を失い避難を余儀なくされた未曽有の大災害から10年も経ったなんて・・・・とても信じられません!。

あっと言う間の10年だからあの日の出来事は昨日の事のように思い出せる・・・・と思っていた吾輩。

しかし、当時のブログを読み返したら、「ああ、そうだったのか!?」と思う事ばかり書いてあるではないか!。

.ミさんが風邪のために起きられず、やったことも無い息子の朝食を作ったり洗濯をした事。
5か月の孫を迎えに行き、児童館で遊ばせてから自宅へ連れ帰った時に地震に遭遇した事。
2箸大きく揺れる中、家内が孫を抱いて階段下の倉庫へ避難した事。
つ内会長が「津波が来るから逃げろ!」と自転車の乗って町内をふれまわっていた事。
ゲ罅垢避難を始めようと出掛ける直前に娘夫妻が夢メッセから戻って来た事・・・・・等々。

多くの方々から協力や支援を受けた事も、忘れかけていた出来事となっていた。

あれから10年、吾輩も歳を取り生後5ヶ月だった孫ももう10歳だ。

数百年に一度と言われる大地震に遭遇した我々は、その時代に生きた証人として歴史に語り継がれる事だろう。

あれから6年!・・・・東日本大震災

あの東日本大震災発生から昨日で6年が経過した。

いつも思う事だがあっという間の6年間だった。

多くの被災者からすれば吾輩が考える時間よりもっともっと短かかったかも知れないなぁ・・・・。

3月11日は、犠牲者の一人となった義母の7回忌の当り日でもある。

出来る事なら当り日に法要が出来ればよいのだが、お寺の都合で予約が取れなかったので法事は先月末に終えていた。

檀家の方々にも多くの被災者がいたから、やむを得ない事ではある。

地震発生時間には生ネギ畑で追肥の作業をしていた吾輩だったが、市の無線放送に合わせ義母を思い黙祷した。

我が家も津波で甚大な被害を受けているから、3月11日はやっぱり特別な日なんだろうなぁ。

多くの方々からの義援金や支援金で早々に再建出来た事を喜びたいけど、家を失ったり住む場所を追われたりしてまだ12万人以上の方が避難生活を送っている現実を考えると複雑な思いはある。

6年もの歳月が経ったとは言え、復興なんてまだ途中の途中まだほんの入り口でしかないのだ。

亡くなった方のご冥福を祈ると共に、みんなが早く元の生活の戻れることを切望してやまない吾輩である。

合掌!。

あの3.11から1年が経った。

早いものであの3.11大震災から一年が経った。

歳のせいで記憶力も思考力もだいぶ弱くなった吾輩の頭脳だが、この震災に関する1年間については昨日の如く思い出されるから、腐りかけの脳みそであってもまだ捨てたモノではなさそうだ。

さて、昨日、その大震災で犠牲になった義母の一周忌法要が菩提寺でしめやかに行われた。

我々夫妻と息子の他娘夫婦にも案内があったが、息子だけは仕事の関係で出席できなかった。

2012031001



親類の中には肉親を津波で失った方・・・・、建てたばかりの豪邸を失った方もいるので、久しぶりの挨拶にもぎこちなさを感じた。

まだ満足な葬儀もしていないので、同じ一周忌を迎えても・・・・。明日合同葬が行なわれる」と、母親をなくしたハローワークに勤める従弟が見せた精一杯の笑顔に、まだまだ終らない震災の傷跡を感じた吾輩である。

ところで、この一周忌が終ったら家内の実家では自宅の移転新築工事が始まるらしい。長男が開設する接骨医院を併設する豪邸?と聞いた。ホームエレベータも付く3階建てのようだ。

我が家では新しく神棚を飾る算段をしている。

震災で落下し壊れた前の神棚は、自宅を新築した際に亡くなった義母が用意してくれた立派な神棚だったのだが、そんじょそこらのD・I・Yで仕入れた物では無い正式にお払いを受けお清めされた神棚だった。

だから今回設置する神棚も、塩釜神社でお払いを受けたモノにしたいと願うカミさんの意を汲んで、萱葺屋根の豪華な神棚にしようかなぁ〜・・・・・と思案している吾輩である。

まぁ、神様・仏様に縋る前に、己の行動を日頃から省みる必要を感じているのも確かであるが・・・・・。

震災後の街づくり説明会

machidukurimap

先日、震災で被害を受けた仙台市東部地域の新しい街づくりに関する仙台市の説明会に出掛けた。

被災区域をそれぞれ地域ごとに分割した説明会になっていて、当日は吾輩が住む白鳥地区が対象だった。

我が地区は津波で流出した家屋は1軒もなく、多分死者も出なかった地区なので、集団移転対象地域に該当するわけではないが、今後の震災対策がどのようなものか知りたくて参加した。

今回と同規模津波が大潮時の満潮位に発生したとの想定で、それに基づく対策(河川堤防、海岸堤防、道路の嵩上げなど)を施した上でシミュレーションすると、我が地域では逆に浸水深が増す事がわかった。七北田川より北側では仙台港に絡む道路状況のせいで思うような対策が出来ないからだと言う。

結局、同じような津波が再来すればまた同じように被災する事を考えると、今回の説明会が何だったのか理解に苦しむ。2階建て以上に居室を設ける条件付建築制限を課す・・・・だけの説明ではとても納得しかねるのだ。「このような対策を施すと、多くの地域では浸水区域や浸水深が減少するが、皆さんの地域は逆に浸水深が増します。我慢してください」と言われたような説明会だった。

5年後か100年後か、あるいは1,000年後?、いや明日来るかも知れない大津波。しかし、「住まいの安全確保が一番!」などと行っている割には果たして何年先を目指して進めているんだろう。役所は・・・・。机上の空論ばっかし言い合っても事態は全然進捗しない事を思い知るべし。

あ〜ぁ。吾安心没時迄不来海嘯。なぁ〜んてね。(意味不明)



被災地の傷跡はまだまだ・・・・・・だなぁ。

釣りはしたいが何となく躊躇している吾輩。

渡船が無い・・・・。

下水処理場の壊滅による垂れ流しで水質悪化・・・・・。

魚が放射能汚染・・・・・。

行方不明者が多くて、もし・・・・・・。

そんなこんなで、今年は太平洋岸での釣りを半分諦めている吾輩だが、それでも心の中では何とかできないものかと思い散歩がてらいつも利用していた渡船乗り場に行って見た。

松ヶ浜漁港はトンネルから通行止めになっていて直接現地に入れなかったが、あの防波堤の上に打ち上げられていた漁船はすでに片付けられていた。また高台から見た限りでは残念ながら渡船「黒崎丸」は数艘の船体から確認する事が出来なかった。

その次に向ったのは菖蒲田漁港。「黒崎丸」に替えるまで利用していた渡船山崎の「チャレンジャー号」の乗降場があった漁港である。

予想はしていたが、漁港はもちろんそこに行くまでの漁村・宅地はすべて流され住宅の基礎だけがむき出しになっていた。渡船山崎のあのバスはもちろん受付所もすべてなくなっていたし、あの「チャレンジャー号」がどこに消えたのかさえ知る人は誰も居ないのだと言う。

そして菖蒲田浜に向った。(写真)

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仙台近郊の海水浴場として多くの人が利用する海岸が、もう砂地が消え、流されてきたコンテナーの残骸が漂う海に変わり果てていた。

下の写真は海水浴場に隣接する町並みが壊滅した跡地である。ここだけでなく、この辺の漁港付近の集落は全てこのような有様になっていた。

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