2014年09月
行けば必ず何がしかの作業をするのが常であるけど、草取りなどの作業を一切せずに墓参りだけやって来た。
菩提寺となる本源寺にあるお墓は、お盆の時に一度綺麗にしたので今回は掃除の手間が省けると思っていたが、墓石が供物に群がるカラス等の鳥のフンで汚れていたし、墓地の中は小さな雑草が生えていたので掃除に取り掛かった。
作業していると、「あっ、いたいた。ちょうど良かった」の声が聞こえたので振り向くと、駐車場から延びた通路をこちらへ向かって来る家族連れが・・・・。
「うん?誰だ?」近づいて来た人たちを見て誰が誰だか全然見当がつかず。
多分、怪訝そうな目で見る吾輩を察したかのように、花を抱えた先頭の女性が「さちです」と言った。
さちと言う名を聞いて、「あっ、そうか!」と思い出したけれど、しばらくぶりの対面になるせいか名前と顔が一致しなかった。
さち嬢は、実弟の子つまり吾輩の甥・大史の嫁さんにあたり埼玉に住んでいる。
30歳ぐらいだったかなぁ?、若くして亡くなった甥の一回忌で顔を合わせて以来だから、その子供・航平がもう六年生になったと聞くと改めて時の流れを痛感させられた。
そう、吾輩の記憶力低下もそうだ・・・・。
あれからずっと疎遠になっていたけど、埼玉に帰る前にわざわざ家族でお墓参りに来てくれたと言うからホントにありがたい事である。そう言えば、死んだ甥は帰省すると必ずお墓掃除をしてくれる心優しい奴だったなぁ。
我がご先祖と共に、甥のご冥福を祈りたい。
袖すりあうも多少の縁・・・・くらいでしかないが、昨日の訃報を聞いて忘れていた彼女の存在を思い出された。
吾輩とはまるっきし住む世界が違う人だったけど、若き頃の女史と一寸だけ接点があった事を書き留め置く。
もう、だいぶ前・・・・まだ吾輩が独身の頃の話である。
『よこはまたそがれ』の作詞家として名を馳せていた山口洋子氏が仙台に来た時、社長命令で運転手に指名されたのがそもそもの始まりであった。
社長つまり当時吾輩が勤めていた会社の社長が(彼女を仙台に)招待した・・・・と理解しているが、その日は偶々社長車の運転手が私病で休んだ為、吾輩に運転手としての白羽の矢が立った。
ダム現場の工事が一段落し、関連会社に出向中の出来事である。
「まぁ、たまには仕事の息抜きに、乗ったことも無い高級車を運転するのも悪くないなぁ」と二つ返事で引き受けた思い出がある。若かったし・・・・。
国分町の本社から仙台駅迄迎えに行き、彼女と秘書?風の男性を一番町の〇〇画廊まで乗せて行った。
仙台駅でも一番町でも、車に乗り降りする有名人に注がれる視線のまぶしかった事ったらなかった。
たかが運転手の身ではあるが、なんか自分もその視線の先に居る有名人の片割れになった気がして、優越感たらたらに慕った気分だったなぁ。その時は・・・。
その後、画廊から高級クラブ「たわらや」へ送ってから、東京へ帰る彼女を仙台駅までまた乗せて行った。
ただそれだけの話であるが、みんながみんな、中々そう簡単には経験できない事だから、自分史的には一つの大きな思い出として心の片隅にしまっていた物語である。
また、ある時・・・・、東京の東扇島へ研修に行っていた時、社長が陣中見舞いに来た後、我輩だけ都内まで同行する事になり、その時、連れて行かれたのが山口洋子氏が経営する銀座の高級クラブ「姫」だった。
1階のカウンターで飲みながら席が空くのを待ち、それから生バンドが演奏する2階の会場へ移るシステムになっていて、カウンターの棚には有名人のボトルが数多く並んでいた事を鮮明に思い出せるよ。
ただ、珍しさだけでついて行ったけど、ホステスとの会話もやりとりもすべてに於いて「田舎者の来るところじゃないなぁ!」と痛感させられた!と言うのがホンネ!かなっ。
今になって思えば、当時の社長は『花子とアン』に出て来る炭鉱王・伝助のように思えて仕方ないけど、若かりし頃の僕ちゃんは(社長の)お気に入り社員だった事がわかるよなぁ?。(笑)
ご冥福を祈ります。
前からTDL(東京ディズニーランド)に出掛ける話が出ては立ち消えとなっていたが、千葉県で中学時代の同級会に出席する事になった吾輩に便乗し、娘家族共々ファミリーで押しかける事になったのだ。
ただ、まだ3歳11ケ月と10ケ月の孫を連れてのTDKはさすがにきついものがあるので、今回は孫・大翔(娘の子)のリクエストもあり、14日はマザー牧場、15日は市原こどもの国へ行くことに決めたと言う。
結構荷物があるから娘家族のボクシーで行く事も考えたが、長距離で燃費が良い我が愛車プリウスで出発した。プリウスで同級会へ行けば、次の日の子供の国へ直接向かう事が出来ると考えたからである。
いすみ市大原での同級会に参加した吾輩は、マザー牧場へはみんなと一緒に行けなかった。
ちなみに、マザー牧場へは若き頃2回ほど行った事がある。だいぶ昔の事なので現状がどうなのか想像もつかないけど、孫たち・・・・と言ってもほとんど大翔の事だけど、多くの人出の中十分に楽しんだと聞いたから良かった。
二日目は息子の家からほど近い、市原子供の国・キッズダムへ出掛けた。大原から息子の自宅に9時半前に戻った吾輩もみんなと一緒に出掛ける事が出来た。
ここはさすがに子供の国だけあって、親と子供連れがほとんどのすごい人だかりだった。
すべて子供中心の施設だから、親・・・いや爺じには手持無沙汰なところが多々あって、待つ時間が多いのは仕方なかった。でも、孫たち・・・・中でも息子の子(悠生)にはたまにしか会えないのだからと、カミさん共々120%の愛情を注いで来たつもりである。
16日の夕方帰宅。みんなご苦労さんだった!。
塩釜の中の島桟橋から石巻万石浦までおよそ1時間30分、松島の景観を見ながら楽しい時間だった。
松島湾の島々を近くで見るのはいつ以来だろうか?。
死んだ親父が健在な頃に子供と一緒に観光船で巡って以来だからおよそ27.8年ぶりだな!。多分。

サンファンバウチスタ号
支倉常長の遣欧使節団が使ったサンファンバウチスタ号が復元・係留されている近くから万石浦橋を通り抜けようとしたら、ガーン!スパンカーが10cmほど長くてあわや激突!。慌ててスパンカーを倒して難を逃れたが、満潮時間帯に通過するときは絶対確認怠るなかれ!。
それから万石浦に入って行ったのだが、何と!係留施設は見るも無残な姿をしていたでは有りませんか。船の持ち主従弟のT美や吾輩の愚弟、そしてT美の隣人T・Nの、ど素人3人衆が取り付けたと言う桟橋は、まだ未完成である事を差し引いても何てみすぼらしい事か!。材料不足と耐力不足で全く使い物になる気配が感じられなかった。
東日本大震災で周囲が平均50cmも沈下しているので、満潮時と干潮時では留める船の位置をずらす必要がある。つまり満潮時は以前の岸壁(石積)を越えて海面が上昇する為、干潮の時は少し離れた所に船を係留させておかなければならないのだ。だから桟橋もそれに合った物でなければ・・・・。
今回、船着き場のおよその位置関係がわかったから、桟橋の漫画的図面を描いて送ろうと思う。
T美の仕事の都合で(彼の)休みの日しか船に乗れないのは致し方ないけど、吾輩も来週の日曜日は千葉県で同級会、その次は青森へ真鯛釣り、その次は従弟の三回忌法事・・・・と今後の日曜日は予定がびっしり入っている関係で、釣りが出来るのは10月に入ってからだ。
ずっと楽しみにしていたのに残念だけど、それまで、桟橋をがっちり整備しておいてくれればそれで良し!。
みんな!。頼むよ!。
それと、平日釣行が出来なくなった一番の理由は、T美が志津川近辺にボートの係留先を見つけるために働き始めた事だけど、駐車スペースも無くて、車がすぐ近くまで寄れないこの場所は早く諦めたほうが良いと思う。
線路をくぐるガードは軽がやっとだし、その軽だって沈下した場所を行き来するのがやっとなんだから・・・。
まぁ、それまでは仕方ないので通いますがねっ!。
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Mr.タックス