先日(7/31)、高砂橋から蒲生干潟方面への県道が開通した。

東日本大震災で壊れた堤防の復旧と嵩上げの為、ずっと通行止めになっていたのだ。

2年ぶりくらいだと思うが、その後、どうなっっているのか気になって足を向けた。

DSCN1614
干潟方向への入り口


堤防は堤体全部がコンクリートブロック板で覆われ、草木は一本も生えていない。

立派な道路が出来た事で堤防と平行に走っていた和田堀は消え去ってしまった。

和田堀は我が家の南側を通って、もう少し下流で七北田川につながる小さな水路・堀なのだ。

少々の雨なら問題は無いのだが、豪雨になると排水しきれなくなっていつも浸水の原因となっていた。

新設された西原ポンプ場へ直接接続された事で、下流側の水路が撤去されたのだろう。

DSCN1613
七北田川下流側から撮影

塩竈・閖上街道の東側にあたるこの地区には、蒲生・港・西原・和田の各行政区があった。

海岸からずっと平坦な土地が続いていた事もあって、津波で多くの家屋が破壊され犠牲者も多く出た地区である。

今は数軒が自宅を補修して居住しているが、ほとんどが県道西側の共同移転地などへ移った為、土地を買い取った仙台市が工業用地等の造成をしている。

中野小学校は暫らく近くの小学校に間借りして存続していたが、2年程前に閉校となった。

その小学校跡地に学校の沿革などを記した記念碑が建っていて、傍らには、津波で亡くなったこの地区の方々の慰霊碑も建てられていた。

和田区に住んでいて津波で犠牲になったカミさんの母・・・・義母の名前も刻まれていた。

DSCN1607
小学校跡地に建立された記念碑

震災後、この地区全体が津波危険区域に指定された事もあり、カミさんの実家では土地を売却し移転した。

だから、もう関係ないと言えば関係ないのだが、昔、堤防からカミさんの実家へ向かう道路が今はその跡形さえ無くなった事に哀愁を憶える吾輩である。


DSCN1611
中央付近にカミさんの実家があった。

長女も結婚してすぐ、この付近のアパートで暮らしていたが、震災の数か月前に引っ越していたので難を逃れた。

住んでいた部屋は見るも無残に破壊されていたからねぇ。

DSCN1610
手前の更地にアパートが建っていた。

もともと堤防脇の道路左側にあった地蔵さんが、なんと堤防下の側道に鎮座していたではないか。

地元住民が昔から大事にして来たお地蔵さんだ。

DSCN1608


DSCN1609
お地蔵さん

小学校跡地から奥はまだ工事中で規制されている。

我が家からここまで往復すると丁度1時間なので、これからは散歩コースの一つに加えようっと。