3月14日(月)
朝早く娘の旦那の両親が反射式ストーブや食事(おにぎり、味噌汁)を持って来た。久しぶり・・・と言ってもたかが3日ぶりの事だがやはり非常食と違ってご飯類は格別だった。特にきのこ汁は涙が出るほど美味かった。

10:00頃自宅に向かったら、「津波が来る!」との情報のせいで自宅を間近にしたところからUターンした。「又か・・・・」と思ったが、万が一を考え娘のAPに戻った。

それから自宅に戻る気は失せ、近くの給水所で40リットル給水して戻ったあと、娘の旦那の実家に向かった。みんなでお風呂に入るために・・・。

娘のアパートは電気も水道もガスも復旧していなかったが、足を伸ばして眠れる幸せを感じながらまた一日が終わった。

3月15日(火)
8:00に自宅に行った。昨夜から息子が寝泊りしていて台所他だいぶ片付けをしてくれたようで助かった。

昼から娘夫妻にも手伝ってもらい和室の畳や居間の絨毯を外に出すまで片付けが進捗した。泥水をいっぱい吸った畳や絨毯はとても重くて腰痛が再発するほどだったが、若者が二人も居るとやはり作業がはかどるものだ。

16:00に作業を止め、明るいうちに娘のAPに戻った。APではストーブを使って餅や牛タンを焼いて食べたが、19:00前には寝る段取りが出来て後は眠るだけだった。

地震後なかなか通じなかったメールが届き、横浜の弟がまだ田舎に居る事が判明した。9日に田舎に戻っていた弟が地震に遭遇し、ガソリンも無くなって帰るに帰れずに居たらしい。いとこや叔母さんの世話になって食いっぱぐれになっていないようなのでまずは一安心だ。

お袋が入所している施設も大きな被害に遭い、系列病院へ避難した旨の連絡が入ったのも今日の事だった

316日(水)
7:00に近くの小学校へ出向き初めて炊き出しを受けた。おにぎり1個、いわしの缶詰、ロースハムが配給された。ありがたい事である。

8:00過ぎから自宅の片付けを始めた。何から手を付けていいのか分からなくなるが、少しずつでもやっていれば時間が解決してくれるだろう・・・と黙々作業した。

昼過ぎに家内の実家の兄貴とその息子がやって来た。そこで初めて今回の地震でばあちゃんつまり家内のおふくろが犠牲になった事を聞いた。電話が通じなかった事もあるが、まさかこんな事態になっていたとは・・・声も出なかった。

遺体安置所になっているグランディ21で身元確認してきたと言う。1週間以内に遺体を引き取る必要があるらしいが、葬儀屋も儘ならない状況下火葬の予定も立たないのでは果たして何時になるか・・・・。ご冥福を祈るばかりだ。

夕方暗くなる前に今日もAPに戻り、19:00にまた配給を受けに小学校に行った。APの付近は電気が復旧していたが、トランスが2個も落下したこの県営住宅のAPだけはまだ電気が通じず、7回までの階段昇降はホントにしんどいと思うようになった。

CA3H0050震災後の玄関付近。階段の3段目まで浸水した。黒く見えるのは泥である。