ればたらブログ

真鯛釣りをメーンにLINEを通した友達作りに勤しむアクティヴ爺さんの気まぐれブログ。

2011年03月

震災7日目〜10日目

3月17日(木)
6:30炊き出しの小学校へ行き配給を受けた。今朝は乾パンだった。

8:30自宅に行って室内の片付けに掛かる。テレビも洗濯機も空気清浄機もIHクッキングヒーターも・・・・・。電化製品は全て諦める事にした。一縷の望みがあった冷蔵庫も「販売点に連絡・・・・」の警報が出たのでこれも諦めた。

浸水した高さぎりぎりにあったノートパソコンが果たして無事かどうかACアダプターが水没して使用不能のため確認できないが、おふくろの後見記録など重要なデータが入っているため気が気でない。

昼頃息子が帰宅し、「会社の仕事の都合で新潟に応援に出かける」と荷物を纏めてあわただしく出て行った。

夕方また配給所で配給を受け、食事後早々と20:30に就寝。

3月18日(金)
今日も朝炊き出しを受け、自宅に行って片付けをして夕方戻り、また配給を受けて早く寝る・・・のパターンになった。

ただ、夕方娘のAPの電気が復旧していて、電気のありがたさを実感する。

3月19日(土)
いつものように配給を受けて食事後に自宅に出掛けるつもりだったが、カミさんが作業をしたくないと言い出した。今回の津波で犠牲になった母親が安置所から引き取る旨の連絡を受けていたからだ。

10:00ころ自宅に行き、ビデオカメラを持って徒歩で海岸方向へ向かった。ばあちゃんが無くなった実家の現場を見に行くために・・・・。

カミサンの実家やその周辺は瓦礫が散乱し歩くのもやっとの状況だった。実家は辛うじて建物が残っているが一階部分は見る影も無かった。

さらに堤防上を歩いて海に向かったら、海に近づくにつれ建物がまばらにしか見えず、瓦礫や車の残骸があっちこっちに散らばっていて、どこが道路か入っていく事も出来なかった。

河川敷には今しも新築したように2階建ての住居が鎮座し、屋根だけの住宅も数棟が横たわっていた。

海岸に最も近い場所の小学校も大きく破壊されていて、見た限り使用不能に思えた。自衛隊員がプールの瓦礫と泥を除去していたが・・・・。

亡くなったばあちゃんの実家があった付近は殆どの家が流されていた。家内の叔父さんのあの豪邸も跡形無く消えていた。

この惨状を目の当たりにして、あらためて今回の地震・大津波のすさまじさを実感した。

予定の時間に葬祭会館へ向かったら誰も居なかったので確認したら、多賀城市内の菩提寺に運んだと言う。今回の地震による被害者が多すぎて火葬の予定が立たないためそれまでお寺に仮安置するのだ。

近くの生協が店を開いたと言うので行列に並び買い物をした。食品は一人10点までと言う事だったが、店の陳列棚にはめぼしい物はすべて無くなっていた。

APの戻ってからまた娘の旦那の実家へ風呂をいただきに行った。途中買い物と精米をしてから行ったので到着したのが17:00を過ぎていた。風呂から上がり実家のご主人と一杯ごちそうになり食事までいただいて帰った。

CA3H0069CA3H0068










3月20日(日)
今朝もいつもの如く配給を受け食事後自宅に戻った。もう9日も経つと言うのに、作業はまだ半分以下の進捗だ。各部屋ごとに物を外に出して滞留した泥・水を片付けて水洗いするのが日課になった。我が家はコンクリート住宅なので床版がコンクリートだから成せる技だが、木造住宅ではこうは行かないと思う。

夕方APから直接配給所へ行ったら長い行列が出来ていた。弁当屋の「HOTTO MOTTO」からの支援サービスだった。何も分からずに並んでみたが、30分も待った甲斐がある豪華な配給食だった。

APへ戻ったらエレヴェーターが使えるようになっていた。水や荷物を運んで7階まで上がるのはとても辛いものがあったからとても助かった。

続く

震災4日目〜6日目


3月14日(月)
朝早く娘の旦那の両親が反射式ストーブや食事(おにぎり、味噌汁)を持って来た。久しぶり・・・と言ってもたかが3日ぶりの事だがやはり非常食と違ってご飯類は格別だった。特にきのこ汁は涙が出るほど美味かった。

10:00頃自宅に向かったら、「津波が来る!」との情報のせいで自宅を間近にしたところからUターンした。「又か・・・・」と思ったが、万が一を考え娘のAPに戻った。

それから自宅に戻る気は失せ、近くの給水所で40リットル給水して戻ったあと、娘の旦那の実家に向かった。みんなでお風呂に入るために・・・。

娘のアパートは電気も水道もガスも復旧していなかったが、足を伸ばして眠れる幸せを感じながらまた一日が終わった。

3月15日(火)
8:00に自宅に行った。昨夜から息子が寝泊りしていて台所他だいぶ片付けをしてくれたようで助かった。

昼から娘夫妻にも手伝ってもらい和室の畳や居間の絨毯を外に出すまで片付けが進捗した。泥水をいっぱい吸った畳や絨毯はとても重くて腰痛が再発するほどだったが、若者が二人も居るとやはり作業がはかどるものだ。

16:00に作業を止め、明るいうちに娘のAPに戻った。APではストーブを使って餅や牛タンを焼いて食べたが、19:00前には寝る段取りが出来て後は眠るだけだった。

地震後なかなか通じなかったメールが届き、横浜の弟がまだ田舎に居る事が判明した。9日に田舎に戻っていた弟が地震に遭遇し、ガソリンも無くなって帰るに帰れずに居たらしい。いとこや叔母さんの世話になって食いっぱぐれになっていないようなのでまずは一安心だ。

お袋が入所している施設も大きな被害に遭い、系列病院へ避難した旨の連絡が入ったのも今日の事だった

316日(水)
7:00に近くの小学校へ出向き初めて炊き出しを受けた。おにぎり1個、いわしの缶詰、ロースハムが配給された。ありがたい事である。

8:00過ぎから自宅の片付けを始めた。何から手を付けていいのか分からなくなるが、少しずつでもやっていれば時間が解決してくれるだろう・・・と黙々作業した。

昼過ぎに家内の実家の兄貴とその息子がやって来た。そこで初めて今回の地震でばあちゃんつまり家内のおふくろが犠牲になった事を聞いた。電話が通じなかった事もあるが、まさかこんな事態になっていたとは・・・声も出なかった。

遺体安置所になっているグランディ21で身元確認してきたと言う。1週間以内に遺体を引き取る必要があるらしいが、葬儀屋も儘ならない状況下火葬の予定も立たないのでは果たして何時になるか・・・・。ご冥福を祈るばかりだ。

夕方暗くなる前に今日もAPに戻り、19:00にまた配給を受けに小学校に行った。APの付近は電気が復旧していたが、トランスが2個も落下したこの県営住宅のAPだけはまだ電気が通じず、7回までの階段昇降はホントにしんどいと思うようになった。

CA3H0050震災後の玄関付近。階段の3段目まで浸水した。黒く見えるのは泥である。

震災2日目〜3日目

3月12日(土)

明るくなってから娘のアパートに上がり台所周りの片づけを手伝ったが、大きな余震が頻発するので部屋に居る事が出来ず、部屋を出て車に避難した。娘のところには5ヵ月半の赤ちゃんが居るのでまずは安全第一である。

自宅が床上浸水したのが分かっているのでとても見に行く勇気も無く、まして自宅の近くまでいけない雰囲気もあったので行く事は諦めた。

夜も車のテレビを見ながら夜が明けるのを待つ事になったが、圧倒的な大津波に流される家屋、車、工場・・・・の映像を見る限り1000年に一度の大震災である事がまざまざと脳裏に焼きつけられた。

福島第一原発も被害を受けたようで、一瞬チェルノブイリの原発事故が記憶に甦った。福島県内の原発施設は首都圏の電力消費量の3分の一を賄っていると言われる。東京電力のために原発を誘致し、固定資産税や漁業補償で恩恵を受けてきた県民(反対の人も居たようだが・・・)は、想定外の事とは言え今まさにリスクを背負ってしまった。やはり原発は怖いものだと言う事を認識すべきだったと個人的には思いたい。もう遅いけれど・・・・・。

夕方、避難先のアパートに息子が来た。自宅に行って我々が使っていた毛布とタオルケットをわざわざ届けてくれたのだ。革靴を泥だらけにして自宅に行ったようだが、一緒に来た会社の同僚は石巻の方で、彼女の家は自宅が津波で流され跡形も無いと言っていた。言葉が出なかった・・・。

3月13日(日)

9:00頃震災後初めて自宅に行った。

道路も敷地もそして部屋の中も一面泥が堆積していて、車も人も歩くのさえ儘ならない状況だった。長靴が全部水没していたので釣り用のスパイクシューズを履いて作業に掛かったら、フェルトスパイクのためかずるずる滑って全然仕事にならず・・・。

家の中は見る影も無いので車庫周りの泥片付けを始めたら、まもなく自衛隊員がやって来て退避の勧告を受けた。川の水が引いたので津波が来るからと告げられた。

すぐにアパートまで戻りそこで退避していたが、どうもガセネタのようで何の変化も無かった。14:00にまた自宅に行った。

車庫周りの泥片づけが主だったが、近くのキリンビール工場から流れ出た夥しい缶ビールやペットボトル等を含む酒・ジュース類を集める作業が大変だった。麒麟麦酒で生産される殆どの銘柄が100本いや数100本単位で各家庭の敷地内に散乱していたのだ。中には近くの道路や空き地に転がっていた製品を家族で台車に乗せて帰ってくる住民まで居た。

泥片づけをする上で重要な水道だったが、嬉しい事にちょろちょろながらも出たので泥落としには大助かりだった。

夕方暗くなる前にアパートに戻り、自宅から持っていった水とガスコンロ(卓上)を使い焼きそばを作って食べた。3日ぶりに足を伸ばして寝れたのでゆっくり休む事が出来た。

地震の規模がM8.8からM9.0に変更された。今回の大地震による被害からすれば当然だと思った。

兄貴の嫁さんの関係で、南三陸町の役場職員の方の安否が不明になっている事を聞いた。無事に避難していることを祈りたい。

続く。

CA3H0051自宅居間の状況

悪魔のあの日!

あの、悪魔のあの日!3月11日(金)の吾輩の行動記録を思い出しながら書いておこう。

カミさんが風邪をこじらせ布団から出ないため吾輩が朝食の支度をする羽目になった。出勤する息子に食べさせるためだが吾輩が朝食を作るなんて事は年に数回も無い珍しい事である。

居間の掃除をするのは毎日の事だが、今日は特別洗濯機を回して洗濯物も干した。そう!それも滅多にない事だ。

9:00過ぎに郵便局でお金を引き出し、おふくろが入所する施設に行って支払いを済ませた後、おふくろの顔をちょっとだけ見てすぐ戻った。

11:00から近くの児童館で行われる「ばぶばぶタイム」に孫を連れて行くため急いで帰って来たのだ。

娘のアパートへ迎えに入って一緒に児童館について行った。終わってから我が家に帰宅したのが12:30分過ぎていた。

娘の旦那が14:00前に我が家にやって来て、食後娘と夢メッセへ催し物を見物のために出掛けた。孫を我々に預けて・・・・。

そして、運命の時間がやって来た。14:46!!!!!!。

大きな地震だった。

家内は孫を抱いて階段下の倉庫に入り、吾輩は居間のボードの扉が開かないように押さえていた。普通ならすぐ収まるだろうと思っていたのだ。

だが、尋常ではない大きな揺れでボードのグラス類が落下し始め、危険を感じ隣のトイレに避難した。コンクリート住宅の我が家はこんな狭小場所が構造的に強いのを知っているから・・・・。

当初発表された地震の震度は7.9で、震度6強の大地震だった。

大分長い時間揺れていた。治まった後で外に出たら誰かが「大きな津波が来る」と叫んでいた。6mとか10mの大津波が来る・・・・と。

玄関に置いていた非常用の持ち出し袋と、通帳類の貴重品を持ってとりあえず避難する事を決意したがその時すでに15:08分頃だった。予報ではすでに津波が到達する時間を過ぎていたのだ。

孫を連れて気が気でなかったが、今まさに出発しようとしたところに娘夫妻が戻ってきた。急いで3kmほど離れた娘のアパートに向かった。丁度15:10頃だった。

避難先のアパートは県営住宅の7階だから多分大丈夫と思っていたら、電気もガスも水道も使えず冷蔵庫が入り口をふさいでいたりしてやはり相当な被害を受けていた。避難したのは良いが寝る事も出来ないのでアパートの駐車場で車中泊する事にした。

会社に勤めていた息子から岩切の小学校に友達と避難した旨の連絡があり、家族全員無事だった事でまずはひと安心した。

大きな余震が絶え間なく続き全然眠れなかった。

今回の大地震によるすさまじい被害は車中の地デジで情報を得られたが、我が団地付近で堤防が決壊したニュースが流れた事で自宅が水没する事を観念した・・・・。

続く。

CA3H0044

上の写真は避難先のアパート受電設備トランスが2個落下した様子

やっと復旧しました

今日やっとインターネットが繋がった。

2階のディスクトップパソコンが落下して前面のカバー類が壊れ、本体も駄目だろうと半ば諦めていたのだが何とか繋がったので嬉しかった。

階段の3段目まで水没した我が家の後片付けに忙しく、とてもパソコンをいじる気になれなかった。

やっと今日から自宅に寝泊り出来る事になり、それでパソコンに手をつけられた訳だ。

もうあの悪夢の大震災から2週間以上経過したが、カミさんのおふくろが津波で犠牲になるなどいろんな出来事があった。いやありすぎた。

今夜はもう遅いので地震の体験記はおいそれと書くとして、避難先の娘夫妻は勿論、ガソリンや食料品を運んでくれたタケチャンマン、差し入れに来てくれた満君!、3回もお風呂に行った健蔵さん宅!、みんなホントにありがとう。感謝!感謝!。謝々。

今日は疲れた、、もう寝ます。
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